例えば、(1) の『クレタ人は嘘つきだ』が正しい場合、 この言葉の内容をこの言葉自体を言ったクレタ人にも適用するということは、 もう少し詳しく言うと、この『』の部分は、
と解釈していることになる。
『すべてのクレタ人は嘘つきだ』 (2)
ところが、2 節で説明したように、 このパラドックスは (1) の『』が正しくない場合にも それがこの言葉自体を言ったクレタ人にも適用されることで成立するので、 ということは (1) の『』の否定を、
と考えていることになる。しかし、よく知られているように、 (2) の否定は (3) ではなく、
『すべてのクレタ人は嘘つきではない』 (3)
である。
『嘘つきではないクレタ人もいる』 (4)
このように考えると、 このクレタ人が本当のことを言っているとすれば不合理になるかもしれないが、 本当のことを言っていなければ (4) だということになり、 そうだとすればこのクレタ人が嘘つきであるかは問題ではないことになるので、 パラドックスにはならない。
実際、[1] にも、この節と全く同様の議論が載っている (エピメニデスのパラドクスの項)。 しかしこの問題、 つまり「(1) がパラドックスにはならない」という問題は、 例えば言ったことがその人に確実に適用されるように、 「クレタ人」という集団への言及をやめて、
と言ったことにすれば解消する (つまりパラドックスになる) ことになる。
『私は嘘つきだ』 (5)
竹野茂治@新潟工科大学