このパラドックスでは、 「嘘つきである」人の話した (1) の『』も嘘である、 と見ているわけであるが、それは厳密に言えば、「嘘つき」を
としていることになる。
『話すことが常に嘘である』 (6)
しかし、「嘘つきでない」場合にも その人の話した (1) の『』が嘘でないと見る、ということは 「嘘つきでない」ことを
としていることになる。 しかし、(6) の否定は (7) はなく、
『話すことが常に正しい』 (7)
であるから、(8) であるとすれば、 クレタ人が嘘つきなら不合理になるが、 嘘つきでないとすれば正しいこともあるし正しくない場合もあるので、 (1) はやはりパラドックスとはならない。
『話すことが正しいこともある』 (8)
ただ普通に考えると、嘘つきが (6) で 嘘つきでない人が (8) である、というよりも、 嘘つきでない人が (7) で 嘘つきは
である人、と考える方が自然ではないだろうか。
『話すことが嘘であることもある』 (9)
もちろん、この (7) と (9) との 組合せであったとしても (1) は パラドックスとはならないことになる。
このように考えると、 3 節の話と合わせてみると元々の (1) は、
のように 4 通りに解釈できることになるが、これらの否定はそれぞれ3 節の (5) で、 「クレタ人」をやめて「私」にすれば パラドックスでなくなるという問題は回避できると述べたが、 この節の問題も、 「常に」をやめてこの『』自体に適用されるようにすればいいので、
と言ったことにすれば解消する (つまりパラドックスになる) ことになる。
『私が今言っていることは嘘だ』 (10)
なお、これも [1] には「うそつきのパラドクス」として紹介されている。
竹野茂治@新潟工科大学